ピアノを続けるとは
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2025年5月6日のブログです。
ピアノに対する思いは、本当に人それぞれなのだということを、多くの生徒さんや親御さんたちと出会ってきて、つくづく思います。だから、できるだけ、自分目線ではなく、その方の思いに近づいてあげたいと願いレッスンしていますが、もっともっと人生修行が必要だなあ、と感じます。人さまをわかってあげるなんて、そう簡単にできると思ってはいけません。
・・・自分自身、気づいた時にはピアノを習っていました。
ピアノを習い始めた時のことは全く記憶にないのです。
覚えてはいませんが、母から聞いている話によると、ピアノとバレエの二つを習わせてもらっていて、小学校に上がる前に、どちらか一つにに決めた方が良いと言われ、私がピアノを選んだようなのです。全く記憶にありません。
よみがえる記憶の断片は、小学校低学年の頃のほんの一瞬のレッスン風景。そして、めったに出かけることもせず、休みの日はひたすらピアノに向かっていた時間。練習しながら「こうして練習している時間、ピアノを習っていない人たちは、いったい何をして過ごしているのだろう、よほど暇を持て余しているのではないか」と、素直に疑問に思っていたことなどでしょうか。
発表会やコンクールもしょっちゅうありましたが、記憶はほぼ残っておらず、不思議なことに、5年生の時、コンクールの本番で、大きなミスをしてしまった時の演奏中の前後の記憶だけがはっきりとあります。それと、入賞して、母親がものすごく嬉しそうだった時の、母の顔なども記憶にあります。(演奏は覚えていません……)
何が言いたいかというと、自分の子供時代の人生にとって、ピアノの練習に多くの時間を割くことも、本番を色々通過することも、当たり前のことだったのだろう、ということ。だから記憶に残っていないのかなと思います。
毎日食べていたご飯を、いちいちクッキリと思い出せないようなイメージです。
幼児の頃で毎日1時間半くらい、小学校に入ってからは2時間以上、3、4年生以降になると毎日3時間くらいの練習を推奨されていて、「何時間練習したの」と先生に聞かれるたび「にじかんくらいです・・・」と、うつむきながら答えたことも、うっすら覚えています。二時間練習は失格だ、と、当時は認識していました。
そんな教室は、中学校に上がる頃、いったん区切りをつけさせて頂き、少し間をおいて、別の先生にお世話になることとなったのですが。(高校卒業までお世話になった先生で、とても良くして頂きましたが、初期のレッスンとのギャップに驚き、ピアノを教えるとは、いったい何が本当なんだろう、と、心に何かが生まれた、最初の出来事だったかもしれません。)
・・・話を練習時間に戻しますが、平日の練習が2時間で足りないなんて、今の一般のレッスンでは考えられない世界です。
毎日2時間以上練習するなんて言ったら、子どもでも大人でも、教える側からみて、すごいの一言。あくまでピアニストを目指さない場合の話ですけれど。
結局、ピアノを習うタイミングも、きっかけも人それぞれだし、続けていけるためには、本人の意思だけではなく、家族の協力も必要。
そして、ここからが一番言いたいことですが「本来、ピアノを続けていくことに理由をつける必要もない」ということです。目標を持つ、という立ち位置ではなく、「できるところまでやる」と腹をくくるほうが、多くの気づきを得られたり、ピアノや音楽への敬意も深まるような気がいたします。
何らかの理由で、できなくなったら、やめるしかありません。
今、そうではないとしたら、四の五のと考えたり、自分の「やる気という不確定なもの」に頼ることもやめ、ただ、やるべきことの一つにピアノを位置づける。ただやる。そういう意味では、たとえ10分でもいいと思います。
私自身は、いつからかはわかりませんが、ピアノの練習において、日常的には「やる気」とか「モチベーション」とか、そんなものは、基本的に無視しています。
体調や時間の都合で練習ができたりできなかったりしますが、自分にコントロールできない変動する感覚などは、無視したほうが、ピアノの練習は続けられます。(体調とやる気を混同しないように気をつけましょう!)
・・・子供の頃の私の膨大な練習時間と、しっかりしたソルフェージュ教育を受けてきたことは、何十年たった今、ぶれない土台となり、自分でも気づかないところで、音楽人生を支えてくれてきました。その結果、今、ささやかながら、いらしてくださる生徒さま方のお役にたてているのかなと。
今になり、当時の先生方、何より親に対して、とてつもない感謝の念がわいてきます。