0か100かではない
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2021年7月25日のブログです。
過去に撮ってきた練習動画を整理していて気付いたことがあります。
そのなかのひとつが、本番直前の演奏が一番良いとは限らないということ。練習し続ければどんどんうまくなっているわけではなかったということ。
響きを耳で追う、響きのある音を紡いでいく、という意識や技術がほとんど分かっていなかった段階の話になりますが(と言ってもほんの2、3年前)本番近づくほど、指で弾くことへの意識がどうしても高まり、結果、曲がだんだん手に馴染んできたことが音楽としては決してプラスに作用しているわけではない演奏になっていたりもしました。
音楽は、ある意味すらすらいけばいいというものではない。そう思います。
弾けなければ曲になりませんけれども、その「弾く」が、どこか自動的に行われてしまう部分が増えてくると、聴く側からしたら、味気ないところがでてくる。
気持ちを込めて音を出す、とか、脱力どうこうの話でもなく
「出てきた音を最後まで聴けているか」ということなんだと、今は思います。その時その時に出てくる音は同じ人間でも少しずつ違うわけだから、毎回同じ演奏にならないのが自然なことなんだと思います。
・・・と、ここまでは前置き。
本題はその先です。
「でも、そういったこと全部ひっくるめて、なにかができているかいないかが演奏のすべてではない」ということ。「良くなろうと努力し取り組んでいる途中の演奏にはいつだって輝きがある」ということ。当たり前のことですけれども、物事は0か100かではないと思います。奏法を変えたいと勉強し始めたからといって、すぐに理解でき音が変えられるわけではないし、逆にわからないことや、できないんじゃないかとか、不安も増えたりして、どっちつかずの演奏になったりしたとしても
そこで経験する「意識」自体がものすごい財産だし、試行錯誤していくことで、未来に一歩進める土台が築けているのかなと思います。
過去の20点30点50点の自分の練習動画をみて「いい演奏なんじゃないか」と、感じられるようになったことが、最近の大きな変化ですね。
改善点に気づけない、という意味ではなく、ゼロ百ではない見方聴き方を自分に対しても当てはめられるようになったのはうれしいことです。
勉強もせずに「みんな違ってみんないいんだよ」と、ただ唱えていくこととは全く違い、気づけるけれども認められる、という感覚は奥が深いなあと感じます。
頑張ろうという気持ちになります。