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やっと気づけてきたような・・・

2020年5月2日公開のブログです。

皆さまこんにちは。

昨夜、練習しながら自分の演奏を録音して、がっかりし、なんでこんなに変なんだろう・・と、気をつけるポイントを色々変えながら何度もトライし・・・音楽性の問題か?などと精神論にいきかけたりして・・・・でもそれなら、自分の演奏に違和感を覚えるはずはない。違和感!そう、違和感です。歌いまわし(音楽の気分)ではなく、実際に聴こえているものへの違和感・・・

そして、疲れ果ててそろそろやめようかという時に気づきました。「やっぱり聴き方なんだ」と。

本当に、今さらそこか、という感じですけども。やっぱりまだまだ立ち上がりの音しか聴いていないんだな、自分、と。

そして、もう眠くて朦朧としてきたので、もう、ひたすら音のしっぽを耳で追いかけることだけやろう、と決め、しっぽがしょぼかろうと音を間違おうと、歌いまわしもなにもかも何かをしようとせず、今の自分に出せる「しょぼいしっぽ」を追う作戦をやってみました。弾いていると、音の頭がでっかいとしっぽが聴こえなくなるからか、どんどん細くなっている気もしたけれど、そこは、これまでの学びにより「浮かないよう」にだけ気を付けました。できていたのかわかりませんし、そもそもこれが的当たりなことだったのかもわからない。

・・・でも、録音したものを聴きましたら、この日唯一「まだ聴ける」ものとなっていました。

・・・そして、今あらためて思います。先生は、こちらが響きを耳でちゃんと追っているか(追おうとしているか?)一瞬で見抜いておられるのだろうなあと、。二年半レッスンに通ってたくさん教えて頂いて、もちろん、少しは身についてもきたけれど、まだまだ「弾こうとして」ばかりいたな、わたしは、と。早く身につけて生徒さんにもっと技術を教えたいし、いい演奏がしたいし、という焦りもやっぱりあったのかも。

これは絶対に長い年月が必要なのだ、と、いま、気持ちをあらためました。

何事もそうだと思うけれど、誰かに何かを教わって、ものにする、というのは、直接簡単にどうにかなるものではなく、教わってもわからなくてできなくて悩み、少しずつ何かに気づき、自分が変わっていって、そして結局は、自分で自分を育てるということなんだろうなあと思います。いま、レッスンを直接受けられない時期に、不自由だからこそ必死になってみて、何かがうっすらと見えてきた気がします。

正直に言いますが、立ち上がりの音ではなく響きを聴く、というのは、私にとって、「目の前の人の姿は一切見ずに、オーラだけを見なさい」と、言われているくらい、できないことでした。そもそも、ドミソかドファラか、もしくは、タンタンタタ、とかのリズムだとか、そういう「形あるもの」(という表現が適切かわからないけれど)の判別ができることばかりを、音楽の基礎と信じてやり続けやらせ続けてきたわけですから・・・

それらの基礎はもちろん必要ですけれども。

・・・ロシアピアニズムを学びつつも、心のどこかで「私には本当のオーラは見えないだろう」と思っていたあきらめも、ある程度まで早く身につけたい、という焦りも、どちらも、捨てることにします。

こうして悩みながら耳を鍛え、わずかずつでも新しいことを身につけていくことが、生徒さんたちのお役にたてるなら、幸いです。