地味であること
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2024年2月27日のブログです。
音がひとつひとつクッキリはっきり聴こえる演奏は、わりと多くみられる気がします。耳心地の良い音楽を求めていくと、もっと、色々な演奏が出てきても良さそうなのですが、耳にする演奏は、似たような感じが多いのはなぜかなあ、と思います。耳にする場面が、主にステージ演奏だからでしょうか。
コンクールなどで人の耳を意識する、ましてや評価を意識する、って、考えてみたら、音楽にとって、不自然なことです。難しいところですね!良い刺激や学びもあるのですけれど。
上手くて退屈な演奏、というのも存在すると思います。評価にさらされると分かっている時、突っ込まれないようにここもあそこもいじり回すことで、最終的に、スキもないが、息苦しい演奏になるということもあり得ます。
こういうことを感じている人は、世の中にたくさんいるのではないかと思います。演奏の場面によっては、わかっていても変えられない何かがあったりもするのかもしれません。
曲にする前に、弾く、とか、歌う、という「音を出す」というそのこと自体にスポットを当てて考えていかねばならないのだよなあ、と思います。しっかり弾くってどういうことでしょうか。そもそもこの言葉の使い方は、どうなのでしょう。言葉って難しいですね。また、自分の身体に目を向けるのが先かもしれません。
もちろん、本物の技術を身に付けるなど、何であれ並大抵のことではありませんが、音楽に関わり指導に関わっている以上、表面的なところを超えた、どこか、本物に通じる何かを、自分なりに、自分の今のレベルで求め続けて生きたいものです。
目に見える単純な成果を越えて、ピアノは楽しい、とか、そういう一番表面で感じる単純な感情も超えて、自分自身と対話していくというか、一方で視野を広げていくというか、、、そのためにできることを、続けていきたいと思います。私自身がレッスンを受けることもそのためです。自分がどこまでできるかなんて、考える必要ない。今、以外に目を向けないこと。
ピアノを習っている時、自分の心の奥の方に、何か良い予感のようなもの、「予感」としか言えないのですが、そんな感覚があるときは、その予感は当たると思います。言葉にできないひそかなワクワク感のようなものです。「ひそかな」というところがポイントです。
ピアノを学ぶことも、音楽を学ぶことも、本来は、とても地味なもので、もっと言ってしまえば、大勢の人といちいちシェアできることではないと思います。華やかなドレスやスポットライトの部分を目指していくのではなく、心の奥と対話しながら、そこで感じているものに鈍感にならなければ、上手く進んでいける気がします。
そうやって、ごくたまに、他の人と演奏や音楽についてシェアしあうこと、スポットライトの場も体験することで、「本番は日常の方だったんだ」と、あらためて気づき、充実感を感じられたらうれしいですね。