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あきらめない の意味

盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」

2021年2月1日のブログです

寒いです。レッスン室は防音室のエアコンですので、セーターはなるべく着ないぞ、と、思っていましたが、あーそういえばセーターの本気の出番は2月頃だったな、と、いま、思い出していました。日中の気温が0℃ぐらいで、キンキンに冷えてる~、となってはじめて、ニットセーターのほんとうのありがたさがわかります。

さて、タイトルの話です。最近腑に落ちたというか、ああそうなんだなあ、と、感じていることを書きます。

あきらめない、ということと、執着しない、ということは、同じだということです。

執着しない、というのは「どうでもいい」ということではなく、「他の手を探し続ける」ともいえるかもしれません。

あきらめない人、というと、石にかじりついて頑張る、みたいな言葉のイメージもある気がするけれど、全然違いますね。あきらめない、は、楽しい、と、必ずセットになっているとも思います。

私自身、何度もここでも言ってきたように、ピアノを教えていくと、生徒が「上級」になって、実は突然ぼろがでるというか、中級までに指導してきた、目先のテクニックでは通用しなくなる、指導者のレベルが露呈する、ということを直感し、自分自身が本当のテクニックを手に入れる以外に、本物の指導者になる道はない、と、歩んできました。自分が演奏会を開けるレベルぐらいでなければ、本当のところは気づけるはずがない、とも感じて、そこに向かい、それなりに成し遂げてきたとも思います。(まだまだほんの入口ですが)

はたから見て、頑張っている人に見えていたかもしれませんし、自分でも、頑張ります、とか、よく言いますけれども、自分が口に出す「頑張る」とは、「一つの場所にとどまっていない」ということなんだと思います。「頑張ろうね」とは「一つの場所にとどまらずにいようね」という感じかなあ。

明日、もし、ピアノを奪われても、いまと同じマインドで、何かに向かおうとしていると思います。

ピアノを弾くこと、教えることに、執着しているわけではありません。なんと不思議なことでしょうか。

これは、今思えばなのですが、自分が、自分の演奏を本気で学ぶ前、ピアノ教室をもち、生徒が何人、十何人、二十何人と、増えていった昔は、「執着」があったかもしれないです。生徒さんにやめてほしくない、増えればうれしい、減ればがっかりする。発表会やコンクールさえも、意地悪な見方かもしれませんが、多少の執着だったかもしれません。いや、執着というより「それが生徒のため」と思い込んでいたのかな。

「失いたくない」という気持ちがあれば、それは執着です。

長いこと同じことを同じやり方で続けていくと、「もういいや」としりすぼみになっていくか、「失いたくない」の執着になっていくか、思考停止になり、ただ何となく続けていくことになるか、そんな危険もあると思います。何事によらず。

「大切なもの」だけれど「執着」していない、という軽やかな感覚が、なぜかこの頃はっきり舞い降りてきた感じがしています。たくさんの人のおかげだと思っています。また、もしかしたらですが、様々な過去を一気に手放したからなのかもしれません。意識してはいないけれど。

過去のその時その時、いつも求めるものがあり、学びたくて、時間とともに居場所を変え、やり方を変え、変えることに伴い、時に人間関係で悩むこともあったけれども、結局、人は、誰でもない自分自身の求めるものを見つめ続けることで、どこにいるべきかわかってくるし、導かれていく。そうやって努力していけば、無理のない自分の姿で関われる人たちは、どこにでも必ずいるのだということを、実感しています

いま、ピアノの素晴らしさ、面白さ、可能性、様々なことを日々新たに感じなおし、入ってきてくれる生徒さまとの出会いに感動しながら過ごしていますけれども、昔とは感覚が全然違います。

結局、もっとピアノが上手くなりたい、もっと良い指導ができる教師でいたい、と、あきらめずに歩んできた過程で得たものは、「執着を手放すマインド」だったのかもしれません。

そしてもちろん、過去よりは進化した耳、テクニックを、先生がたのおかげで身につけてきています。

こんなことを書いていますが、まだまだいろいろな経験が待っていることでしょう。

楽しみに、あきらめないで歩いていきたいと思っています。