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一年習って

盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」

2022年2月16日のブログです。

私が現在の教え方になって、以前と比べてはっきり変わってきたことがあります。それは、お子さまが小さければ小さいほど「すすみかたが一見ゆっくりのように見える」ということです。

小さいといっても、小学校前半くらいまでのことを指します。

一年習って、楽譜がだんだん読めるようになってくる、鍵盤の位置がわかるなど以外では、鍵盤の出入りで大事なことがちょっと身に付いてくる、程度のペースではないでしょうか。幼児の場合はもっとゆっくりのこともあり、、個性によって差がありますが、ある子はようやくピアノに関心を持ち、自分から弾こうとする(遊び弾きOK)、しかし音符やリズムは少しずつ読めるようにもなり、書くこともできたりする、ある子は鍵盤の位置と楽譜が一致してきて、自分で楽譜を見ながら練習ができるようになってきた、レベルでも立派なものだと思います。

運動としての指の動かし方ではなく、使い方としての指の体操的なものは、適宜とりいれます。それを意識をもって練習できるようになる、という段階もあります。

一般的に見られる風景として「ピアノを習って1年です」とか言いながら、まあまあの曲を両手で立派に披露したりする。特に日本人なのか、よくわかりませんが、小さいのにできる、というのが「すごい」と、見えてしまう。それが本人の資質だとしたらそれは素晴らしいことです。(天才ということもあります)でも、ちょっとできるという程度の場合は、その子の未来を考えると、なにがいいのか分からないと思うところもあります。周囲に余計な期待が入っていなければいいと思います。

能力があり、どんどん弾けるなら、それを止めたりはしません。即興演奏に向いている可能性もありますしね。ですが、たとえそういう資質の場合だとしても、基本の部分「美しく、力強くかつ繊細で、かつ、将来何歳になったとしても身体に負担をかけずにピアノを楽しんでいけるための鍵盤との関わり方、ピアノに向かう身体の使い方」について、ゆっくりゆっくり、毎回注目して少しずつやっていきます。

簡単に言えば、鍵盤にどう入り、どう出るか、というところです。

ピアノは、鍵盤の音がわかり、リズム通りにその音をタッチすれば、その曲に聴こえます。楽譜を読めなくても覚えれば弾けます。

ただ、音の数が多くなってくると、二本の腕、二つの手のひら、十本の指、のみならず身体全体をコーディネートさせた動きが本当に必要になってくるんです。こうなってきたとき、鍵盤への入り方、出方、その時の身体は、出てくる響きの違いは(ここ重要)、こんな時はどんなふうに身体を使えばいいのか、そもそもここは指をどう使って弾くのか、などなどを学ばずに育ち、初歩から一貫して「ひたすらその鍵盤をどれかの指で弾く」ということだけで進んでいくと、たとえばショパンで、リストで、音色が単一、なんだか汚い、あるいは弱弱しい、本来の曲には程遠い、など問題だらけになっていきます。さらに、弾くと疲れる、という現象まで出てきたら、残念過ぎます。

途中で奏法を変えた場合、鍵盤の入り方、特に出かた、それらの連結を、はじめは難しいとか奥が深い、とか感じることもありますが、最初に違うことを覚えてしまったから難しいと感じるだけで、考えてみれば、スタートは「ありかた」として難しいわけではないと思います。むしろ自然なあり方だと思います...私自身、まだまだ勉強途中ではありますが、ここまで来て、生徒さまなども見てきて言えるのは「鍵盤からどう出るか」で、演奏の質が変わるということです。

たとえ「指弾き」のままだったとしても、そこに意識を持つと、やはり変わります。指先だけを使っていては、ちゃんと鍵盤から綺麗に出ることができないので(パッと離すだけになる)鍵盤からの出方を意識することで、結果的に、相互作用で身体がいくらかつながる、ということもあるのだと感じます。あとは耳ですね。耳を使うようになる。

聴かずに弾いているだけというのは、あまりに多くあることだと思います。私自身も長い間ずっとそうでした、、ほんとに、昔は聴いていなかったんだなあと、どんどんわかってくるという感じです。

たとえば大人のかたなら、1年意識を持って学んで、確かにそうなんだなあ、ということが自分なりに感じられ、やる気が高まってきていれば、上等ではないでしょうか。良い学びは、やる気を高めてくれます。特に大人の場合ですが。

人間、やる気を高めながら学べることこそが最大の喜びだと確信しています。誰かに褒められることよりずっと深い喜びです。

そういう学びに、進歩という結果がついてこないはずはありません。