「努力」でかたづけない
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2023年2月6日のブログです。
言うまでもないことですが、人はそれぞれ、好きなこと苦手なこと、得意なこと不得意なこと、その中でも、やるのは嫌だけど見るのは好きとか、極端になると見るのも嫌、など、物や事に対する感じ方に、様々な特性を持っています。
ピアノを習う、ピアノを弾く、ということについても、あえて才能という言葉を使うとするなら、少なくとも初動のお稽古の進み具合というものは、その子のもともとの才能によるところは大きいと思います。
こども、まあ、小中学生までを指すとして、ピアノコンクールなるものが大変多くあるこの頃ですが、この結果というのも、基本的には最初に持っている才能だ、と今のわたしは割り切っています。あくまでも基本的に、です。
安易に、努力の順番だ、という言葉を出して、励まそうとしたりさらに頑張らせようとしたり、というのは違うなあと感じます。ピアノはけっこう向き不向きがあるものだと思う。でもそれは、あくまで、他人と比べた時の話で合って、子どもがピアノのレッスンを続ける本当の意味は、その人が人生の中でピアノや音楽に親しみ楽しんでいけるための土台を作ることなので、子どものコンクールの結果など、ほんとうはどうでもいいことなのですが。
努力というのは、自分の中にある才能を起こしてくれる力があり、努力を重ねることで、違う景色が見えてくるということはよくあることです。だから大事。
でも、他人と比べて順番がついてしまうようなとき、それが「努力の順」だけとは、思いません。
結果によって、単純に、あ、自分は才能が少しあるのかもな、もっとがんばろ、と、喜べばいいし、あ、もっと才能がある人がこんなにいるんだな、でもピアノ楽しいから自分もがんばろ、と、思えばいい。どんぐりの背比べの世界ですから、ちょっとの頑張りで結果も変わるしね。(審査員による、などということを言い出すのはこのレベルにおいては野暮ですし、指導法の話も今は横に置きます。)
何でもかんでも、自力でどうにかできる、努力さえすれば結果が出る、というのは不自然です。自分の中にある才能の種を起こしてやる、そのための努力なんだ、と、頭ではなく心で納得できれば、いつだって自分のペースで楽しんでいくことができます。
他の人の演奏を聴く、というのは良い刺激、経験なので、そういった場を提供して下さる運営の先生方には感謝です。
才能、という言葉より、努力、という言葉の方を、特に日本人は好みそう。でも、特に芸事の場合、人によりそもそもの才能の違いがあることをはっきり認識している方が、楽しく学んでいける気がします。
そして、まだ見ぬ才能が自分の中に眠っている可能性もあります。
自分の才能にも、他人の才能にも、敬意を忘れたくないです。
努力って、みんなしているもの。その人なりに。
努力しなさい、という言葉は、あまり言いたくないですね・・・