一人の先生の責任
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2023年1月20日のブログです。
楽器のレッスン、特にピアノの場合、幼少期から数年単位、いや、ある程度未来に残る土台の力をつけようとするなら、10年以上続けることも珍しくないことです。
本格的に学ぶ、という場合は、どこかの時点から、色々な先生についていくことも普通ですが、一般的には、ある先生について教わり、いつかやめる。これだけです。
怖いことだな、と、身が引き締まります。
間違いなく教えてあげられることについては良い。それは、音符やリズムのルール。楽譜の読み方。他の楽典的なこともそうですね。どこかで調べれば調べられることを、その場で適宜わかりやすくお伝えしていくのも、先生の仕事ですので、簡単なことではありませんが、その内容は、決まりきっていることがほとんどです。
問題は、楽器を扱うことそのものに関して。音の出し方、出てきた音の判断、そして身体の使い方。ここをどうとらえるかによって、音楽的なアドバイスにも違いが出てきます。
この件に関して、たとえば私の教室の生徒さんについては、私の見解がすべてということになります。
気づいてあげられない、ということを避けるため、先生は、ピアノに向かい続け、終わりなき勉強をしているわけです。そして、外からの情報も、できる範囲で伝える。私はこういう弾き方を推奨しているけれど、過去にはこう教わったし、こんな風な教わり方もした、色々あるんだよ、というように。閉鎖された教室で、視野を狭くしないためには、日常的な働きかけが大事だと思います。
コンクールなどで、他の教室の生徒さんの演奏を聴くというのも良い刺激にはなるかもしれませんが、それはあくまで仕上げた姿を披露しあうだけなので、また別なことだと思います。
グループに参加し、指導のための講習をたくさん受けていたころもありました。でもやっぱり、自分自身の練習、レッスンを通して、技術を進化させていくことでしか本当には伝えられないことがある、と、はっきり思いました。講習で学ぶことは、本当にありがたく、指導の大きな支えにもなりますが、その頃のメモが、本当に生きてきているのは今です。
技術ものなんだから、技術を磨かなくてどうする、と、毎日自分の中で感じている気持ちがありますね。あたりまえのことですが。
好きで弾いているピアノですが、より充実した指導のため生かせることを、より意識に刻み込んで学んでいきたいと思います。
指をどう動かすか、ということだけにとらわれていくと、行き止まります。
最近、耳がなんだかよく聴こえるようになってきたのか、少し前の自分の演奏の録音に突っ込めるようになってきました。これは、大変に喜ばしいことです。聴き方、というのも同時に進歩するのが、良い学びの証拠だと思います。鑑賞するだけなら自由ですが、演奏するとなった時、耳の使い方が大きく違いを生みます。
幼少期に聴音が非常に得意だったわけですが、その分、今求めている耳の使い方に至るまでには、時間がかかったのかなと思います。まず音符が何か、ということがどうしても聴こえてしまって、指が自動的に動いてしまって、それで何十年もやってきたわけですから・・・
ただ、聴音が得意な耳は、間違いなく指導には役に立っています。そのことは感謝しています。器用な指にも。
欲張って、今ないものを身に着けていくことをあきらめません。それは必ず誰かのお役に立つということが、もう、わかるからです。
一人の先生の責任の大きさは、喜びの大きさにもつながるのでしょうね・・・
健康に感謝。