心を込めるとは
盛岡市ピアノ教室「ミチコピアノアカデミー」
2021年5月18日のブログです。
心というものは、意識して込めるものではなく、何をしていてもどうやっていても、そこに宿っているものだど思います。
ピアノに向かい、鍵盤を乱暴にたたく子供がいるとしたら、それはもちろん注意します。楽器が痛がっている、良い音で歌えなくなるよ、と。それは、他の物を粗末に扱ってはいけないのと同じ理由です。
それとは別に、演奏そのものが荒れている、というようなときがあるとしたら、そこにはすでに、「今荒れている」心がやどっているわけです。そんな時があってもいいと思います。
生きていればいろんなことがあります。こどもでも、おとなでも。ピアノに向かい、はじめは荒れた音を出していたのが、弾いているうちに心が静まっていくということもあると思います。(いつもポケットにショパン、という昔の少女漫画の中にも、たしか主人公のそんなシーンがあったことが、ふと浮かびました・・・)
雑念なく落ち着いて取り組めるときに、最善の練習、最善の演奏ができる。「心を込める」とは、それだけだと思います。
ただ、そこにあるのは「今できるベスト」であり、曲にふさわしい表現ができるための技術を身に着けていくのは、精神論ではありません。練習の量もそうですが、毎回のレッスンで、何をどう学んでいくのかで、大きな差が出ていくものだと思います。音の間違い、リズムの間違いを直していくだけでは、表現には結びついていきません。
教える側は、油断する暇はありません。
心を込めればうまくなるわけではなく、あくまでも、よく考え練習していくことが大切です。どうしても、目に見えない音楽は、精神論とごっちゃにして雰囲気で指導してしまう場合もありがちかもしれませんが、そこは、教える側の中身、意識にかかっているわけです。
ピアノの練習に、辛抱がゼロということはないと思います。しかし、結果はすぐに出なくても、努力は必ずむくわれます。それは、技術のみならず、自分自身の心に返ってくるものだと感じています。どういう報われかたをするか、は、人それぞれなのでしょう。
一所懸命に取り組まなければ気づけないことは、たくさんあります。ピアノも、例外ではありません。自分にできる範囲で精一杯!
(・・・誰かのために気持ちを込めて演奏して、涙があふれるとか、そういう場合は、音楽を使った心のコミュニケーションであり、それはまた違った面(人の心の素晴らしさというもの)です。音楽を演奏できると、言葉にはできない何かを伝えることもできるよ、という。このことについても私自身大いに語りたいところはありますが、本日のブログにおいては、このことは切り離して考えました。)